みなさんは、食パンを知っていますよね。
では、食パンはどうして「食パン」というか知っていますか?
家庭によっては毎日のように食べているのに、知らない人はたくさんいるのではないでしょうか。
というか、そもそも「なんで」と考えたこと自体ないのではないでしょうか。
では、どうして考えたことがないのでしょう?
どうでもいいことだから
ではないですか?
だって、食パンの「食」が何をさすか知らなくたって、食パンを食べることはできますから。
健康志向の人は、食パンの原料が何かとか、どこ産の小麦を使っているかとか、添加物がないかどうかなどは気になるかもしれません。
それは、自分の体に何かしら関係や影響があると思っているからです。
でも、食パンの「食」が何をさすか知らなくても、パンが腐ったり、不味くなったりはしません。
だから、どうでもいいことなのです。
どうでもいいことだから、あまり考えたことないのです。
先生は、今朝、食パンを食べているときに初めて考えました。
34年間も生きてきて、朝食はほとんど食パンを食べてきたのに、その答えが思い浮かばなかったことに驚きました。
今の世の中、しかもこの記事を読んでいる環境ならば、この答えは容易に見つけることができます。
「食パン」などとインターネットで検索すれば出てきますから。
先生はWikipediaで調べました。
明確な答えはありませんでしたが、こう考えられるというものを見つけることができました。
みなさんなら、どうしますか?
「この記事に答えも書いておいてくれたら親切なのに」
と思うかもしれません。
あるいは、「別にどうでもいい」と思うかもしれません。
自分で調べてみるかもしれません。
この記事は、食パンのことはあくまでも“話題”なので、
この話題を通して先生が伝えたいことをそろそろ書くことにします。
今、学校では、「問い」に対して何をどうやって解決していくかを勉強しているかもしれません。
確かに、調べる方法がいくつもあれば、解決することが簡単になってきます。
でも、どうでしょう。解決したことで、みなさんの人生は何が豊かになるのでしょう。
実は、学習で大事にしたいのは「どうやって解決するかの方法を知る」ことではなく、
「解決したい」と思えるような問いを自らもつことと言えないでしょうか。
食パンがどうして「食パン」というのか
みなさんは、この問いを解決したいですか?
解決したいと思った人は、
1 自分でまず考えてみた
2 自分で出した答えが十分に納得いくものではない
3 納得したい
と考えたことでしょう。
1で終わる人もいます。
その人は、「真実」を気にしない人です。
自分の予想で「多分そう」と思える人です。
友達との間で話題にはなるかもしれません。
2と3の間がみそです。
自分が「考える」ということを大事にしている場合、「納得」することには価値があります。
でも、そうでなければ、この問いならば3にはいかないでしょう。
だって、納得しなくたって、これまで通り何一つ変わらず、食パンは食べていけるし、生きていけますから。
誤解しないでくださいね。先生は、
食パンはどうして「食パン」というか
について考えて欲しいのではありません。
教室で先生が与えた「問題」を答えることは、「問題解決学習」ではないということです。
誰かに「なんで?」と聞かれずとも、自ら「なんでだろう?」という思いをもつことが大事なのです。
そのためにできることは
自分が”当たり前“にしていることに気付くことだと、先生は考えます。
当たり前のことは、当たり前なのですから、なかなか気付きません。
でも、「これは、こういうことを当たり前としよう」と決めた日はきっとありません。
周りの人とか、なんとなくの空気として押し付けられている「当たり前」を、知らず知らずに受け入れているのですね。
生きていく上で全てのことに「なんで」と問い、納得しないとすまないのであれば、とてもとても生きていけません。
でも、ふと自分も「当たり前」としてしまっていたことに「なんで?」と思えたならば、きっとそれはチャンスです。
なぜなら、
それを解決したときに「世の中のことには必ず意味があるのだな」と、世の中を肯定できますから。
また、
解決しないときは「当たり前を当たり前でなく」して、「新しい当たり前」を作りたいという思いがわきますから。
今、みなさんのすぐ傍にも、気付いていない「当たり前」がたくさん転がっていますよ。